2013年6月28日金曜日

海に行きたい

戦争と一人の女

後ろのほうで座ってるおっさんが
女性の陰部が露出するシーンで
いちいち反応する
ポルノ映画と勘違いしていたのだろうか?

イライラする
気持ちが悪い
吐き気がする

現実に、女を人間ではなく
女体としてしかみれない輩がいる

戦争でどれだけの人を殺しても
世界を姑息なやり方で征服しても
愛情で満たされない生き物は
狂うしかない

狂ったものほど
生まれてきた母体を求めて
女を求めるくせに
自分自身の狂気を性欲で
満たした気になって
正常を保ってるかのように
自分自身をもまやかす

気分が悪い
みていられない場面が続く

戦争がうむ狂気、無感情
人間が壊れた様
崩壊しきれず
再生することもできず

こんな世界をそのままにしていいのか
いいはずがない
命は必要とされて生まれてくる

戦争中だから仕方が無い
戦争がなければ、、、

なぜ、戦争をするのか?
する必要があるのか?

未だに戦争がある世の中
情けない
そんなにもアホなのだろうか?
人間は


2012年/日本/98分/カラー/R18+
監 督 :井上淳一
出 演 :江口のりこ/永瀬正敏/村上淳/柄本明/高尾祥子
公式サイト>>

2013年6月25日火曜日

終わらない問い

6月24日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。

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「樽(たる)流し」という風習をご存じだろうか。
海の神様に対する信仰をあらわす手段で、直接奉納に行けない人々などが
海上安全を祈って、初穂などの献上品を酒樽に入れて海に流す。
それを見つけ拾い上げた人が、金刀比羅宮へ持っていき代わりに参拝する。
樽を流した人、拾い上げた人、双方に神のご加護が得られるという
瀬戸内地方の習わしらしい。

前回、「瀬戸内国際芸術祭2013」に出展するため、
香川の本島(ほんじま)を訪れたことに触れたが、
そのときに、たまたま流し樽を拾い上げた方にお会いした。
私は、そうした風習があることを、そのとき初めて知った。
流し樽を見つけたのは、友人の義母のお兄さん。
お宅におじゃましたとき、流し樽に同封された手紙を見せてくれた。
そこには「金刀比羅宮へ奉納してくださる方へ」と、
樽を拾い上げてくれた人に対する代参のお願いと奉納者の名前などが書かれていた。

誰とも知らない相手に祈りをのせた樽を託し、海に流す。
潮の流れでどこに行くとも知れない樽は、どんぶらこっこ、ざんぶらこっこ、
流れ流れて、祈りを託される相手を探すように波に揺られ続ける。
海の上に浮かぶ樽を見つけた人は、それを拾い上げ、
祈りを届ける責任を受けて、金刀比羅宮へと奉納する。
海に対して人間が契りを交わすための儀式。

自然界と人間との契り。
自然からの恩恵を感じ、感謝し、バランスを崩してしまわないように、
侵してはならないルールを守る。
人間が自然に対して契りを交わし、自然界を通して生を営み、存在すること。
奉納者からの代参のお願いが書かれた手紙を見て、そんなことを感じた。

そして、それは個人と個人とが契りを交わし、
家族になることとも通じるように感じた。
家族として幸せに暮らせるようにと祈りを込める。
愛情を誓い、互いを認め合い理解し合い、ともに過ごすこと。
個人が個人に対して契りを交わし、家族として存在することと、
人間が自然界で存在することは、同じことのように思った。

ここにいるために、何に対して何を守り、何を誓い、どう存在していけるのか。
流れ流れて託された手紙を前に、終わらない問いかけを投げられた気がする。



ことのはじまり


2013年6月10日(月)付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。

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昨年9月、本島(ほんじま)という島にはじめて訪れた。
香川県丸亀市に属する島で、塩飽諸島と呼ばれる島のひとつ。
塩飽水軍の拠点の島だったそうで、江戸時代の政庁跡である塩飽勤番所はじめ、
歴史・文化財が多く残っており、島の北東に位置する笠島地区は、
重要伝統建造物群保全地区にも選定されている。

さて、なぜ私が本島に行ったのかというと、
そこで「瀬戸内国際芸術祭2013」という国際展に友人と出展することになったからだ。

香川に嫁いだ友人の義父が所有する土地が、本島の屋釜地区にある。
その場所は、友人の旦那さんがまだ小さい頃、本島に家族で通った思い出の場所らしい。
義母は本島出身で、その祖父母は現在も島で生活をしている。
子どもたちが小さいときは、よく家族で祖父母に会いに島に訪れたそうだ。
そして、海水浴を楽しみ、義父の所有する土地に
簡易的に建てた別荘で数日宿泊もしていたそうだ。

その後、もう一件、本格的な別荘を建てる計画をしていたが、
子どもたちの成長とともに、島に訪れる機会が減っていき、
基礎造成したところで建設は中断してしまった。

ここ数年は、義父と旦那さんが年に数回、管理のため
土地に除草剤を撒きに島を訪れるだけになっていたそうだ。

思い出の残る土地が管理のためとはいえ、
除草剤がまかれ続けることに疑問を感じ、
作品を通して、緩やかでも何かが変わっていくことを期待して、
作品を制作することを決めた友人に声をかけてもらい、
今回一緒にその場所で作品をつくることになった。

結婚をして生まれ育った土地とは別の土地で生活をすること。
新しい家族の中に入ること。義父の土地を使わせてもらって作品をつくること。
それらは何かのことのはじまりのように思えた。

滞在中、家族と接するときも、
成途中のコンクリートの建築物が残るその土地に立ってみたときも、
心の中で何ができるのかを問いかけた。

展覧会の規模、発表する場所や関係性など様々な面で、
今回の制作は私の中にも新たな何かを見いだす機会になるように思える。

大学時代、制作して発表することに
はじめて向き合った時間を一緒に過ごした友人とのこの特別な時間を
丁寧に過ごし、関わっていきたい。


おじゃまします

5月27日付けの沖縄タイムス「唐獅子」に掲載されました。

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他人の家などに入るとき、「おじゃまします」とあいさつをする。
これは、プライベートなスペースに入らせてもらう上で、
相手の許可を得るための礼儀である。
これと同じように、家だけでなくいろんな場面で
「おじゃまします」という気持ちを持って場所に関わることというのは、
とても大事なことであると思う。

例えば、森。森の入り口で、「おじゃまします」と一礼しないと
何だか自分勝手に人様の家に入り込んだような居心地の悪さを感じる。
川や海に足を浸す瞬間も、言葉には出さないけれども、
入らせていただくという気持ちをもって、
ざっぷんとした波にひたっと足を入り込ませる。
私の足が入り込むことで、さらさら流れる水の流れは変わるから、
流れにおじゃまする気持ちですーっとくぐらせたりする。
夜の「ぬーぬー」と揺れる黒い海を目の前にしたとき、
うっそうとした木々を抜けて「すこーん」と
抜けてるような場所に訪れた瞬間にも、
そういう気持ちを込めてその場所に足を踏み入れる。

知らない土地や人様の大事な場所に入るときも然り。
「おじゃまします」という気持ちを込めて、足を踏み入れることで、
その場所、土地と自分自身を向き合わせる。

入り込む側に、プライベートな場所だと感じさせたり、
何か特別だと感じさせる場所。
その場所にとっては、入り込んでくるもの自体が異質な存在なんだと思う。
人間の身体もそうだけど、免疫のない異物が入ってくると、
それを追い出そうと抵抗する、そういう反応は自然なことだと思う。
勝手に人様の家に入れば、その家の人はびっくりして、
追い出されるのは当然のことだ。

こんもりした森も、いろんな表情で揺れて流れる海や川も、
今ここに立っている足元の土地も異物が入り込めば、
大きなストレスを感じるだろう。
人の身体が示す反応は、自然界にも同じように当てはまるものだと思う。
びっくりもするし、急な変化にはストレスも感じるだろう。

私は怪しいものではございません、自分勝手に荒らしたりしません。
敬意を払っておじゃましますので、どうぞよろしくお願いします。

その場所と自分とを向き合わせるための約束の姿勢が
「おじゃまします」なんじゃないだろうか。

2013年6月23日日曜日

6.23

毎年、この日は晴れてる気がする。
午前中、暑さと海風にあたりながら、
多くの祈る人々の中で、黙祷

捧げる花
捧げることば
この日にだけ
捧げられるものでなないことを
心に念じて空を仰ぐ

午後は、母と叔母と祖母と
海がみえる場所で昼食とおしゃべり
女が四人も集まれば、
会話は止まらない
この幸せな時間にただただ感謝です。

2013年6月19日水曜日

梅雨明け

雨があがった
五月後半からすごく調子悪かった
香川にいくと、なぜか、すーとよくなった
沖縄に戻り、じっとりした空気にはいると
また、むくむくとしたかゆみがあらわれた

ほんとうに不思議

梅雨明けして、少しいいなぁと思っていたら
また、変なかゆみがあらわれた
翌日、台風発生と天気予報

少し、納得


天気に左右されるのは仕方ない
できることを気をつけなくちゃ

訪れる人々

今月は、県外からのお客さんがたくさん

いろんな方たちがいらして、
顔をあわせてお話する。
意外な共通点を知り、驚き笑う

7月もいろいろと賑やかになりそうです。